ケベックの歴史

先史時代

1429年のコロンブスがはじめて北アメリカ大陸を発見したといわれていますが、それ以前にもヨーロッパから北米大陸への接触はあったようです。

カナダの東岸、北大西洋の沖合にニューファンドランドという島があり、この島の北西端のアンス・オ・メドウから10世紀末から11世紀初頭と推定される北欧バイキングの集落跡が発掘されています。実際バイキングたちは対岸のラブラドール、さらにノヴァ・スコシアあたりまで進出していたらしく、このことはノルウェイの叙事詩などによっても裏付けられています。

1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見とそれに続く三度の航海、その後アメリカの名前の由来となったアメリゴ・ヴェスップッチの航海は、いずれも中米に近い遥か南の出来事でした。
これに対して現在カナダと呼ばれる大陸への探検はもっぱら英仏両国によって行われました。
この探検の主な目的は第一に新大陸の発見、そして第二は東洋への西回りのルートの開拓です。当時の西回りルートのうち南経由のルートはポルトガルに、真の西回りはスペインに開拓され、イギリスやフランスは割り込む余地がなかったのです。

そこでイギリス国王ヘンリー6世は1497年ヴェネツィアの航海家ジョヴァンニ・カボットを起用して北経由で東洋にいたるルートを見つけさせるため艦隊を派遣しました。
そしてこの艦隊は現在のニューファンドランドの東岸のボナヴィス岬に到着し、東海岸を南下して英国領アメリカ(ニューイングランド)を開拓するに至りました。

一方フランスは、やはり北経由の東洋航路を発見するため、フランソワ1世がフィレンツェ生まれの航海家ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノを派遣して 1524年北米東海岸(現在のニューヨーク)あたりを探検させ、そして1534年、ノルマンディー出身の航海家ジャック・カルティエがカナダ大陸に到着したのです。

フランス領時代

ジャック・カルティエは前後3回にわたってカナダを訪れました。(1534年、35年、41年~42年)その足跡は現在のニューファンドランド島からニューブランスヴィック州東海岸、プリンスエドワード島に及んだばかりか、さらに西へセントローレンス河を遡って現在のケベック、さらにはモントリオールまでに達しました。

そして自分の探検した土地にカトリック教とフランス王家を象徴する百合の花をあしらった十字架を建て、フランス国王の名においてヌーベルフランスを誕生させたのです。

このとき一緒に航海してきた112人の乗組員の多くが壊血病にかかり、そのうちの25人が命を落としました。このときカルチェは、もう一度フランスにもどることができるならロカマデュールに巡礼に行くと誓いをたてました。その後さらに40人の乗組員が命を落としましたが、残りの病んだ人々はイロコワ族が伝授した西洋スギの煎じ薬の効力により一週間で回復したといわれています。

カナダへ赴く最初目的は先住民との毛皮の交易でしたが、三度目の航海では植民地化の意図も含んでいました。しかし北の厳しい自然はフランス人の開拓や定住を容易に許さず、1543年以降1600年まで、フランスはカナダに足を踏み入れることはありませんでした。

その後1608年、フランス国王ヘンリー4世に対しカナダの植民地建設を説得したサミュエル・ド・シャンプランによってカナダのフランス文化発祥の地であるケベックの町がつくられていったのです。

シャンプランと部下がケベックにはじめて建てた建物はケベックのアビタシオンと呼ばれ、新フランス植民地とカナダの経済発展に重要な役割を果たしたビーバーはカナダを象徴する公認の動物となりました。

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シャンプランが作ったアビタシオンの復元風景

イギリス領時代

1763年パリ条約によりイギリス領となったヌーベルフランスはケベック植民地と名を変え、異文化支配のもとでいかにしてフランス系として生き残るかを模索することになりました。

毛皮経済においてはフランス系の猟師がもつ森林や動物の生態に関する知識や技術と、イギリス系がもつ資金調達や販売に関する手腕がうまく結びつきました。その他の面ではフランス系が主に農業に、イギリス系は商業に携わるといった具合に、民族とその就業分野が関連して、二分されていくようになりました。

政治や政策においては、当然イギリス型の植民地経営が行われることになっていましたが、
初代の植民地総督であったジェームス・マレーは、イギリス型自治政府の民主主義に危機感をもち、反対にフランス系の権威主義的封建制度に安定を見出していて、当時は圧倒的にフランス系が多いという人口構成を考える上からも、ケベックをただちにイギリス型に改造することに反対しました。マレーの後任のガイ・カールトンもフランス系カナダ社会のもつ秩序を評価し、イギリス本国が主張するイギリス法と代議政体の導入には慎重で、ケベックにおいてイギリスのために必要なことは、イギリス諸制度の設立ではなく、イギリス帝国に対するフランス系の人々の忠誠心を育成することにあると考えていました。この主張の背景には、当時すでにアメリカ13州がイギリス本国に反感を募らせており、この北米大陸におけるイギリスの利益をまもるために、新しく手に入れたケベックをイギリス寄りにつかせておきたかったという理由があったのです。

1763年のパリ条約は従来のイギリス植民地(13植民地、ノヴァ・スコシア植民地、ニュー・ブランズウィック植民地、ルバーツランド)に新たにケベック植民地を加えることにより、北米大陸におけるイギリスの覇権を確立させたものの、すでに植民地としての自立が進んできた13植民地には反英感情が芽生えてきていました。イギリスは13植民地との衝突は避けられない事となっても、新しく手に入れたケベック植民地がこの13植民地に加担してそれを機に北米大陸における領土を失うことを恐れて、ケベックに対して早急にイギリスの制度を導入していくことはかえって反英感情を募らせ13植民地と結託することになりかねないとの状況判断から、1774年、ケベック法を可決し、フランス系文化の存続を認めることにしました。

ケベック法は、領土の拡大、総督と17人~23人の評議員による統治、代議会召集の放棄、信教の自由、イギリス刑法とフランス民法の併存、荘園制度の存続を規定していました。このようなケベック法に最も反発したのは、ケベック内のフランス系の人々でもイギリス系の人々でもなく、13植民地の人々でした。このケベック法は、彼らにとっては自由の地北アメリカにヨーロッパの封建制を移築する足掛かりとなる許せない法律であり、アメリカ独立戦争を促す一つの原因となったのです。

taiho.jpgケベックはアメリカ独立戦争に加担しなかったものの、その影響はかなり大きなものでした。13植民地の中のイギリス王室に対する忠誠派(王党派)たちは、共和主義を嫌悪し、約10万人の大量移住をはじめました。移住者のうち3分の1はイギリス本国に戻り、4万人ほどがケベックやノヴァ・スコシアなどの北方の英国領地に移り、そのほかの人々は西インド諸島やスペイン領フロリダなどへ向かいました。
この王党派たちの移住がケベックの歴史に与えた影響はあまりにも大きいものでした。
この移住によってケベック植民地の人口に占めるイギリス系の人々の割合が急激に増え、フランス系の人々を追い越すことになり、統治の上のみならずフランス系の人々が少数派にとって代わってしまい、その後のイギリス系カナダの源をつくることになっていったのです。

大量に移住してきた王党派の人々は、ケベック植民地の首都(ケベックシティ)から遠く離れたセント・ローレンス河上流とオンタリオ湖岸に移り住みました。すでにフランス系の人々が定住していた地域に移住しなかったのは、王党派の人々がケベックの荘園制度やフランス系の文化や言語を好まなかったからで、結果としてフランス系の人々はかつてのヌーベルフランスの中心地であるセント・ローレンス河下流に、イギリス系の人々はセント・ローレンス河の上流にと、民族によって居住地が分かれていくことになりました。

フランス系の人々とイギリス王党派の人々とは、文化的背景も居住地も違うため、ひとつのケベック植民地の中に内包するよりも、新しい植民地として考えたほうが良いだろうと判断され、イギリスは1791年立憲条例を制定し、ケベック植民地を、アッパーカナダとロウアーカナダとに二分し、分割統治をはじめました。
アッパーカナダは主として新しく開拓され王党派の人々が移り住んだ地で、英語が話され、イギリスの法律と諸制度が取り入れられ、現在のオンタリオ州の基礎となりました。
ロウアーカナダはフランスの文化、諸制度を維持するモントリオール、ケベックシティを中心とする地域で、現在のケベック州にあたります。

その後1837年に保守的な植民地統治への不満から、アッパーカナダ議会ではマッケンジーが、ロウアーナカダ議会ではパビノーが反乱をおこしました。
これを契機にダラム報告書が書かれ、1840年に制定された連合法で、アッパーカナダとロウアーカナダとをカナダ植民地として統合し、アッパー、ロウアー各地域からの同数の代表から構成される唯一の議会を設立することによって、イギリス系によるフランス系の吸収をはかりましたが、イギリス系カナダ人は保守派と責任政府樹立を目指す改革派とに分かれ、この改革派とフランス系が協働し、1848年に責任政府を樹立することとなり、大幅な自治を達成していきました。

自治領カナダの州としての時代

フランス植民地時代、イギリス植民地時代を経るなかで、1848年には責任政府が実現し、1854年には北アメリカにおけるヨーロッパ的封建制度である荘園制が廃止されました。 経済的には1846年のイギリスにおける穀物法の撤廃により、自由貿易主義への転換がなされ、カナダ植民地はイギリスからの経済的自立を模索するため、1854年にはアメリカ合衆国と互恵通商条約を締結し、1864年9月のシャルロットタウン会議、同10月のケベック会議で決議を行い、1867年英領北アメリカ法により、自治領カナダ(Dominion Canada)となりロウアーカナダはケベック州として新たな出発をすることとなったのです。

Assembly hall.jpgケベック州としての出発当時は、経済構造的にもかなり貧しい州で、経済の重要部門は少数のイギリス系の人々に占められ、州政府予算もカナダ連邦政府に大きく依存していました。しかし連邦政府はオンタリオ州地方の産業改革と西部開拓に専念しており、ケベック州は取り残された形となっていました。加えて州政府自体に近代国家の新しい責任を果たす力がまだ備わっていなかったこともあり、政府のかわりに教育や社会福祉の面で中心となったのが教会でした。しかし、教会は近代的統治機構や工業化、都市化に敵意をあらわし、自らの特権を守ることに専念し、その結果ますますケベックの近代化が遅れることになってしまいました。

その後1920年代以降の第二次産業革命において、電力と非鉄金属を中心にケベックの 重工業が発展しましたが、この急激な工業化もイギリス系の人々とアメリカ資本を中心に行われたもので、フランス系の人々は相変わらず教会を中心とする社会のなかに依然として取り残されたままでした。

1936年にケベック州政権の座についたモーリス・デュプレシの率いるユニオン・ナショナル党はその後約20年間、超保守的な政治を行い、近代化はなかなか進みませんでしたが、デュプレシの死の翌年、1960年に行われた州選挙において、ユニオン・ナショナル党は破れ、代わってジャン・ルサージュ率いる自由党が政権の座につきました。

このジャン・ルサージュ率いる自由党を中心に行われた「静かな革命」と呼ばれる一連の社会大改革が、ケベックの近代化を一気に推し進め、現代のケベックの基礎を築いていきました。


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