イギリス領時代

イギリス領時代

1763年パリ条約によりイギリス領となったヌーベルフランスはケベック植民地と名を変え、異文化支配のもとでいかにしてフランス系として生き残るかを模索することになりました。

毛皮経済においてはフランス系の猟師がもつ森林や動物の生態に関する知識や技術と、イギリス系がもつ資金調達や販売に関する手腕がうまく結びつきました。その他の面ではフランス系が主に農業に、イギリス系は商業に携わるといった具合に、民族とその就業分野が関連して、二分されていくようになりました。

政治や政策においては、当然イギリス型の植民地経営が行われることになっていましたが、
初代の植民地総督であったジェームス・マレーは、イギリス型自治政府の民主主義に危機感をもち、反対にフランス系の権威主義的封建制度に安定を見出していて、当時は圧倒的にフランス系が多いという人口構成を考える上からも、ケベックをただちにイギリス型に改造することに反対しました。マレーの後任のガイ・カールトンもフランス系カナダ社会のもつ秩序を評価し、イギリス本国が主張するイギリス法と代議政体の導入には慎重で、ケベックにおいてイギリスのために必要なことは、イギリス諸制度の設立ではなく、イギリス帝国に対するフランス系の人々の忠誠心を育成することにあると考えていました。この主張の背景には、当時すでにアメリカ13州がイギリス本国に反感を募らせており、この北米大陸におけるイギリスの利益をまもるために、新しく手に入れたケベックをイギリス寄りにつかせておきたかったという理由があったのです。

1763年のパリ条約は従来のイギリス植民地(13植民地、ノヴァ・スコシア植民地、ニュー・ブランズウィック植民地、ルバーツランド)に新たにケベック植民地を加えることにより、北米大陸におけるイギリスの覇権を確立させたものの、すでに植民地としての自立が進んできた13植民地には反英感情が芽生えてきていました。イギリスは13植民地との衝突は避けられない事となっても、新しく手に入れたケベック植民地がこの13植民地に加担してそれを機に北米大陸における領土を失うことを恐れて、ケベックに対して早急にイギリスの制度を導入していくことはかえって反英感情を募らせ13植民地と結託することになりかねないとの状況判断から、1774年、ケベック法を可決し、フランス系文化の存続を認めることにしました。

ケベック法は、領土の拡大、総督と17人~23人の評議員による統治、代議会召集の放棄、信教の自由、イギリス刑法とフランス民法の併存、荘園制度の存続を規定していました。このようなケベック法に最も反発したのは、ケベック内のフランス系の人々でもイギリス系の人々でもなく、13植民地の人々でした。このケベック法は、彼らにとっては自由の地北アメリカにヨーロッパの封建制を移築する足掛かりとなる許せない法律であり、アメリカ独立戦争を促す一つの原因となったのです。

taiho.jpgケベックはアメリカ独立戦争に加担しなかったものの、その影響はかなり大きなものでした。13植民地の中のイギリス王室に対する忠誠派(王党派)たちは、共和主義を嫌悪し、約10万人の大量移住をはじめました。移住者のうち3分の1はイギリス本国に戻り、4万人ほどがケベックやノヴァ・スコシアなどの北方の英国領地に移り、そのほかの人々は西インド諸島やスペイン領フロリダなどへ向かいました。
この王党派たちの移住がケベックの歴史に与えた影響はあまりにも大きいものでした。
この移住によってケベック植民地の人口に占めるイギリス系の人々の割合が急激に増え、フランス系の人々を追い越すことになり、統治の上のみならずフランス系の人々が少数派にとって代わってしまい、その後のイギリス系カナダの源をつくることになっていったのです。

大量に移住してきた王党派の人々は、ケベック植民地の首都(ケベックシティ)から遠く離れたセント・ローレンス河上流とオンタリオ湖岸に移り住みました。すでにフランス系の人々が定住していた地域に移住しなかったのは、王党派の人々がケベックの荘園制度やフランス系の文化や言語を好まなかったからで、結果としてフランス系の人々はかつてのヌーベルフランスの中心地であるセント・ローレンス河下流に、イギリス系の人々はセント・ローレンス河の上流にと、民族によって居住地が分かれていくことになりました。

フランス系の人々とイギリス王党派の人々とは、文化的背景も居住地も違うため、ひとつのケベック植民地の中に内包するよりも、新しい植民地として考えたほうが良いだろうと判断され、イギリスは1791年立憲条例を制定し、ケベック植民地を、アッパーカナダとロウアーカナダとに二分し、分割統治をはじめました。
アッパーカナダは主として新しく開拓され王党派の人々が移り住んだ地で、英語が話され、イギリスの法律と諸制度が取り入れられ、現在のオンタリオ州の基礎となりました。
ロウアーカナダはフランスの文化、諸制度を維持するモントリオール、ケベックシティを中心とする地域で、現在のケベック州にあたります。

その後1837年に保守的な植民地統治への不満から、アッパーカナダ議会ではマッケンジーが、ロウアーナカダ議会ではパビノーが反乱をおこしました。
これを契機にダラム報告書が書かれ、1840年に制定された連合法で、アッパーカナダとロウアーカナダとをカナダ植民地として統合し、アッパー、ロウアー各地域からの同数の代表から構成される唯一の議会を設立することによって、イギリス系によるフランス系の吸収をはかりましたが、イギリス系カナダ人は保守派と責任政府樹立を目指す改革派とに分かれ、この改革派とフランス系が協働し、1848年に責任政府を樹立することとなり、大幅な自治を達成していきました。


TOPPAGE  TOP