ケベックの経済

ヌーベルフランスの経済

17世紀初め以降ヌーベルフランスに入植したのは、主としてノルマンディー、ブルターニュ、ポワトゥなどフランス北西部出身の貧しい農民だったといわれています。

その後18世紀半ばには五万人を超える人口となりましたが、1763年、英仏戦争後のパリ条約においてフランス植民地からイギリス植民地となり、経済権をイギリス系に支配されていきました。

フランス系のエリートは、医師、弁護士、代書人の三つの砦に押し込まれ、漁師や農民はアメリカ独立を嫌って大量にカナダに移住してきたロイヤリストたちに圧倒され、自らの信仰と習俗と言葉を守るため、司祭に従って奥地へと向かざるを得なくなっていきました。

Louis XIV.jpg19世紀に入ると、フランス語の使用と地租増税をめぐって議会での対立が深まり、フランス系住民による2度の武装蜂起が起こりました。

この事件により、フランス系の力を弱めるために、イギリス系移民を大量に送り込み、東西に延びる各イギリス領北米職員地の連邦化を急ぐことになりました。

ケベックの経済社会はこうしたカナダ統合への動きの中で、積極的な民族自立の途を閉ざされ、保守的・受動的立場野中で、その後の農本主義・反近代・敬虔なるカトリック信仰・封建制度を構造化していくことになりました。



ロワイヤル広場のルイ14世の胸像

経済自立戦略

1960年以降は、教育や行政、社会政策など様々な分野の近代化と合理化が進められていきましたが、この改革の最大の課題はフランス系住民の経済力がイギリス系住民の経済力に比べて格段に劣るという問題とケベック州自体の経済基盤がカナダの主要州と比較して脆弱だという問題でした。

この解決をめざして、社会民主主義と民族主義をもとにした経済自立戦略が打ち立てられ、 1962年、民間水力発電会社を買収しイドロケベックが誕生しました。

このイドロケベックはケベック経済の中心、産業計画の要となり、ケベックの向上に計り知れない貢献をしています。その後ケベック州の公的セクターは拡大し、鉱山開発や石油、森林、鉄鋼の各部門の公社、金融投資公社や貯蓄投資公庫などが設立されました。これと同時に北方地域やモントリオール周辺での産業創出活動が活発化し、宇宙航空関連や情報、エレクトロニクスを中心とした先端部門での独自技術の開発も目覚ましいものがありました。

イドロ・ケベック
イドロ・ケベックはケベック経済の発展に大きくかかわってきました。その効果は、まず第一に電力供給の面での水力発電によるクリーンエネルギーの供給と電力コストの削減効果、第二には電力の輸出の面での経済効果、第三には水力発電に伴って発達したさまざまな技術は研究のノウハウの蓄積などが挙げられます。

ケベック貯蓄投資公庫(ケス・デポ)
ケス・デポは従来の金融機関とは異なり、資金は主としてケベック州民が払い込む年金及び公共保険をもととしています。ケス・デポを設立するにあたり、ケベック独自の年金計画を導入する必要性を訴え、オタワ連邦政府とケベック州政府との間でその可否をめぐって激しい駆け引きが繰り広げられました。そして当時の連邦首相のレスター・ピアソンの認可により、1965年にケス・デポ設置法ができたのです。
このケス・デポは州の中央銀行の役割を担うとともに、債券投資や株式 投資などを行いケベックの経済発展の一翼を担っています。

民族的自立

1976年のケベック党政権誕生のもと、連邦の規定に反してフランス語単一公用語化政策がすすめられ、フランス語憲章通称101法が可決されました。

その内容は
①    新規移民の子弟に対するフランス語教育の義務化
②    50人以上の企業における職場でのフランス語化
③    広告、看板、標識、企業名のフランス語儀表記の義務化
という厳しい内容でした。

woman.jpgこれまで職場において英語はボスの言葉、フランス語は労働者の言葉とされ、
企業内の言葉は英語に限られていました。

しかしこの強引なフランス語化政策は当時のビックビジネスの拠点をケベックからオンタリオに移す原因となってしまいました。

例えばモントリオール銀行は本社を残したもののコンピュータセンターと高層ビルとをトロントに建て、その他テキシコ・カナダ、サン・ライフなどの30余りのカナダを代表する歴史の古い大企業がケベック州を離れることになりました。

その後1985年12月の州選挙においてケベック党政権に代わり自由党政権が誕生し、
このフランス語公用語化措置は一部自由化され、現在に至っています。




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