ケベック政治の移り変わりと社会変革

1960年以前のケベックは近代化とは程遠い社会であり、特に1944年から1960年まで州政権にあったユニオン・ナショナル党のもとでは、超保守的なイデオロギーが横行し、ケベックの近代化を遅らせる原因となっていました。

1960年の州選挙で政権交代を果たしたジャン・ルサージュ率いる自由党による「静かな革命」と呼ばれる一連の社会改革で、立ち遅れていた近代化が一気に進んでいきました。
この改革での大きな柱となるのは、教育制度の世俗化、経済の活性化と政府介入の強化、そして社会主義に基づく社会制度の創設でした。

教育制度の世俗化としては、旧来の教育制度は完全にカトリック教会の管理下にあり人文科学のみを中心とした学問を重んじてきたため、教育を宗教機関から切り離し政府の管理下に置くことになりました。そして、初等教育から高等教育にいたるまで、教育制度は完全に改正され、社会科学・自然科学・技術教育にも重点をおくようになりました。

また、経済の活性化のために電力の公有化を図り、年金計画や貯蓄投資公庫の設立、労働法の改定などケベック独自の社会制度を整備していきました。

pic4.jpg また、この「静かな革命」はケベックに近代的発展をもたらしたとともに、新たなケベックナショナリズムを生み出していきました。このケベックナショナリズムとはケベック以外のカナダに対抗し、ケベックの文化的、政治的独立を獲得しよう、という政治イデオロギーの事であり、州政府という公的機関を通じてケベックの独自性に基づく特権を積極的に確保していこうとする動きに通じていきました。

1963年のオタワ連邦政府の首相ピアソンが任命した諮問機関である二言語二文化委員会は、カナダには文化的・社会的意味において二つのnation(民族)が存在することをはっきりと認めていても、国家としてのnationはひとつしかないと断言していますが、この考え方と全く反対をなすものが二民族二国家という考え方で、カナダはフランス系とイギリス系の連合体であるという考え方が基になっているようです。
連邦政府は多数派のイギリス系の声を反映させるものであり、少数派であるフランス系の利益は顧みられることがないとの思いが、しばしば起きるケベック独立問題へと発展してきました。

1967年7月、モントリオール万国博覧会の際にケベックを公式訪問したフランスのドゴール大統領は、大観衆を前にケベックの独立を煽る演説を行い、両手を高くあげて「自由ケベック万歳!」という叫びで演説を締めくくり、物議を醸し出しました。カナダ政府としては全く迷惑な内政干渉であり、フランス政府に抗議はしたものの、あまりに強硬な姿勢をとると、却ってケベックの住民の反感を買うことになり、対応に苦慮してきました。

カナダからの分離主義的傾向は永年にわたってくすぶり、1970年には過激派「ケベック解放戦線」のテロで州副首相が誘拐、殺害される惨事(オクトーバー・クライシス)も起こりました。その後1976年にはモントリオールオリンピックが開催され、1980年、ケベック党政権は初めて「主権・連合」の是非を問う住民投票を実施しましたが、賛成40.4%、反対59.6%で否決されました。党首であったレヴェックは後に、独立問題を選挙の目的にしてはならないと主張し、独立を支持する強硬派の反発を買い党首を辞任することになりました。

1995年には再び「独立」の是非を問う住民投票を実施しましたが、賛成49.4%、反対50.6%で再び否決されました。このときのケベック党パリゾー党首は「金とエスニックのせいで負けた」と語りましたが、これはケベック独立問題がケベック州民みなのためのものではなくフランス系のためのものであるかのごとき問題発言であり、彼は辞任を余儀なくされました。後継党首にはケベック連合のルシエン・ブシャールが就任しましたが、彼は勝てる状況を見極められるまで住民投票は実施しないと語りました。

2007年3月に行われた州議会選挙では
自由党:48議席(72)(は前議席数)
民主行動党:41議席(5)
ケベック党:36議席(45)
となり、与党自由党は議席を大きく減らしたものの48議席を獲得して第一党としてかろうじて少数政権を維持することとなりました。二大政党の一角を担ってきたケベック党は1973年以来初めて第三党に転落し、かわってわずか5議席の民主行動党が41議席と大躍進して、初めて公式反対党となりました。

gijdo.jpg ケベック州で少数政権の誕生は、1878年以来129年ぶりのことです。なお1878年の州議会選挙では、定数65に対し保守党32議席、自由党31議席と接戦で、そのうえ「無所属保守党」が2名いました。自由党のジョリ=ド=ロトビニエールが保守党の造反議員4名の協力を得て政権を奪取しましたが、1年半後5名の自由党議員の造反により辞任に追い込まれ、保守党が政権を奪回しています。

民主行動党は1994年に結成されて以来、長らく議員はマリオ・デュモン党首一人でしたが、2002年の補欠選挙でケベック党と自由党の両方に不満を持つ層の支持を受け、連戦連勝して5議席を獲得し旋風を巻き起こしました。1995年の独立を問う住民投票では、ケベック党・ケベック連合との間に三者協定を結び「連邦政府との間で経済的・政治的パートナーシップ協約を結ぶ」提案に賛成の立場をとりましたが、後に主権構想をめぐる住民投票の10年間凍結を提唱して、カナダ連邦に留まりケベックの州権強化を目指す路線に転向しました。

分離主義から距離を置き「自治主義」を綱領に掲げるとともに、むしろ減税、予算の縮小、州公務員の削減、民活の奨励、民間保険導入、私学援助、教育委員会の廃止、刑事罰の強化など住民生活に実利のある政策を打ち出しています。今回選挙で躍進した理由については、モントリオールの覇権に対する残りのケベックの憤慨、既成政党への漠然とした不信感と、独立問題への倦怠感ではないかと考えらます。

ケベック党は議席を大幅に減らしたため、ボワクレール党首は責任を問われて辞任し、党首選が行われましたが、ポーリン・マロワが下馬評で圧倒的な支持を集めたことから、他の候補は全員出馬を断念し、マロワが無投票で後継党首に当選しました。

ジャン・シャレー首相により議会の解散が宣言され2008年12月8日に行われた第39回ケベック州総選挙は、自由党66議席、ケベック党51議席、ケベック民主行動党7議席、ケベック連帯1議席(定数125)という結果となり、与党自由党が過半数を獲得した。ジャン・シャレー首相は56年ぶりの連続3選を果たしました。


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